店を飛び出したものの、一人暮らしの家に帰るのも怖くて、千幸はあてもなく歩き続けていた。
気がつくと彼女は、市街地のはずれにある、展望台へと続く山道に辿り着いていた。
車一台が通れるほどの道路は、道幅は狭いがきちんとアスファルトで舗装されている。それとは対照的に、ガードレールの向こうは鬱蒼とした手付かずの山林が広がっていた。
明かりも乏しい夜の山道を、普段なら酔狂にも徒歩で上ったりはしなかっただろう。だが今日の千幸にとっては、人に会わないことだけが重要だった。
三十分ほど黙々と歩いたところで、ようやく展望台に辿り着く。
真冬の寒さのせいか、駐車場の完備された展望台には車も人も見当たらない。
千幸は駐車場の隅に設置された東屋へと向かうと、中にあるベンチに腰を下ろした。
ふぅっと息をついた途端、張り詰めていた気が緩んだのか、涙が次から次へと零れ落ちる。
「何で……いつも……こうなの?」
流れる涙を拭いもせずに、千幸は嗚咽まじりの声を漏らす。
千の幸せ。そんな名前をもらいながらも、幸せなど遠すぎ、少なすぎる人生だと自嘲気味に思う。
反対に不運や不幸なら、簡単に数えあげられた。
そう、滅多にありえないような今日一日の不幸な出来事は、ある意味彼女の日常だった――
最初は誕生の時だった。健康で病気ひとつしたことのない母親が、お産の最中に脳溢血で亡くなってしまったのだ。
突然妻を亡くした父親は、衝撃と失意のあまり、親であることを放棄した。家庭を、娘を顧みることなく、仕事を逃げ場にするようになったのだ。
彼女は誕生と共に母親だけではなく、父親まで失ったも同然だった。
だが彼が逃げ場とした仕事は、不況のあおりで行き詰まり、あっさりと倒産する。
大きな負債を背負った彼は心労で身体を壊し、千幸が二歳になる前に今度は死という形で永遠に彼女の前から去った。
皮肉なことに残された負債は、彼が死ぬことによって生命保険で完済された。
引き取ってくれる親戚もおらず天涯孤独になった千幸は、当然のように施設に引き取られた。
だがそこでも彼女は辛い生活を送ることになる。
最初に預けられた施設では、火事によって一緒に暮らす数人の仲間を亡くした。
辛い出来事から表情を失くした千幸は、一時的に里子として引き取られた先でも笑うことが出来ず、里親から疎んじられることになった。
食事を抜かれ、殴られる。家から夜中に追い出されることもあった。
数ヶ月後、エスカレートした虐待により大怪我を負って救い出されるまで、幼い千幸は毎日酷い生活に耐えていたのだ。
新しい施設の院長は、そんな彼女に母のような深い愛情をもって忍耐強く接してくれた。そのおかげもあり、やがて千幸は元の明るい表情を取り戻すことができた。
しかし小学校にあがってしばらくした頃、施設で暮らす千幸を『異質』と判断した同級生たちによって仲間はずれが始まった。それはすぐに過酷ないじめへと変わってゆく。
抵抗すれば「施設の子だから」と逆に相手の親が院長を責めた。それに対してただ謝罪する院長は、彼女には決してその姿を見せようとはしなかった。
だが周りからそれを聞いた千幸は、以来どんなに酷い目にあっても黙って耐えることを選んだ。
やがていじめは収まるが、中学になると麗佳のような人物がまた現れた。
それでも千幸が耐えてこられたのは、母親代わりの院長や、施設の仲間、バイト先のオーナー、そして少ないながらも常に彼女の味方となってくれる友達がいたからだろう。
それだけは胸を張って言える、千幸の『幸せ』だった。
だからこそ彼女は、落ち込んだり泣いたりしても、その都度立ち上がることができた。むしろ自分の不幸を笑い飛ばし、いつだってポジティブに未来を、前だけを見ることができた。
だがそんな前向きな彼女でも、失恋にセクハラ、そしておそらく解雇も含めたトリプルパンチが一度にくれば、落ち込んでしまうのは仕方がないことだろう。