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桜の下にて




 すでに人々が眠りについたであろう夜更け。
 ルーナは風姫と共に、とある山の中に来ていた。
「わぁ……」
 感嘆の声をあげ、ルーナはただひたすら目の前の光景に目を奪われる。
 夜の闇の中、自ら光を放つように、浮かび上がる一本の大きな桜の木。地面にどっしりと根を張り巡らせ、大人が何人も手を繋いでやっと囲めるほどの大きな幹からは、無数に伸びる枝が可憐なピンクの花に覆われて色づいていた。
「綺麗……」
 彼女のつぶやきに気を良くしたかのように、桜の木の周りで小さな明かりがポツリ、ポツリと点灯する。
 よく見れば光の中心には小さな蝶の姿――精霊が見える。
 ルーナは幻想的な光景をただまっすぐに凝視していた。
『美しいな』
 横から聞こえる風姫の『声』に、ルーナはコクンとうなずいて同意を示すと、ふわりと風に流されてきた花びらへと手を伸ばした。
「さくら」
 一音ずつ区切るようにルーナが声に出すと、風姫は不思議そうに首を傾げてみせた。
『さくら? この木のことかえ?』
「うん。桜の木だよ」
 ルーナが意外そうに答えると、風姫はふむふむとうなずくと、また漂ってきた桜の花びらを手に取った。
『この木はの、世界に一つしかない木ゆえ、名前はない……というか誰も知らぬというのが正しいな』
「一つしかないの?」
『うむ。どこやらから紛れ込んだのやもしれぬ』
「紛れ込むって……」
 風姫の言葉に答えようと口を開いたルーナは、桜の横に佇む人影に気づいて言葉を詰まらせた。
 ほっそりと背が高く、流れるような真っ直ぐの髪は膝近くまである。
 ルーナは吸い寄せられるように、桜の下に佇む人影へと近づいて行った。


 ■ ■ ■


「――っ」
 目の前の人物に、ルーナは思わず息を呑む。
 控えめでありながら、凜とした、けれど優しげな美貌。ぼんやりとした明かりに照らされる髪は、うっすらとピンクを帯びた白で、少しだけ垂れた目の色は鮮やかな緋色だった。
 衣装はまるで日本の着物に似ており、白の小袖に緋色の帯。その上に白の打掛けに似たものを羽織っている。その着物の襟元がはだけて胸元が見えていなければ、ルーナは彼を女性だと思い込んでいただろう。
 それほど目の前の青年は、優美な美貌を備えた人物だったのだ。。
(桜色……)
 そう、彼の持つ色彩は、まさに桜をかたどったかのようだった。
「人、じゃない?」
 ルーナがかすれた声でつぶやくと、目の前の麗人は小さくうなずく。それを見て彼女は「ああ」と納得したように彼へと手を伸ばした。
「貴方は精霊さんだよね?」
 確かめるようにルーナが見上げて尋ねると、彼はふわりと微笑んでうなずいた。
『貴女から、懐かしい彩(いろ)を感じる』
 外見に似合う柔らかな低音の声に、ルーナはきょとんと首を傾げた。
「懐かしい?」
『そう。吾の生まれし国の……』
 そう言って桜の精霊は切なげに目を閉じる。悲しげにな彼を見て、言葉をなくしたルーナに代わり風姫が口を開く。
『生まれし国? そなたの生まれたのはここではないのかえ?』
『いいえ、風の王。吾が生まれたのは日本という国』
「日本!」
 精霊の口から出た言葉に、ルーナは驚き目を瞠った。
(日本生まれの精霊さん……あっ、だからここに一つ――独りなんだ)
 ルーナはまじまじと桜の大木と、その精霊を交互に見つめる。そして一拍置いた後、浮かんだ疑問を口にした。
「どうして、日本に生まれた貴方がサンクトロイメに?」
『吾にもわかりませぬ。ある日気がついたらここにいた、というのが真実です』
「突然、ここに? そんなことがあるんだ……」
 本来ならばとても信じられる話ではないが、相手が精霊であること、そして日本で死んだ自分が転生してサンクトロイメに存在するのだ。そんなこともあるのかもしれない、とルーナはすんなりと納得してしまった。
『そういえば聞いたことがあるぞ。世界がまだ若く不安定な頃にはそのような事もあったらしいと』
「そうなんだ……。あっ、だからサンクトロイメと地球で似たような植物や動物がいたり、あったりするのかな?」
 地球にも存在した植物や動物がサンクトロイメにも存在すること。それはもしかすれば世界を越えて流れ着いたものかもしれない。
 真実は謎だが、そう考えるのはルーナにとって胸がときめくものだった。
『ほう、それは面白い説だな』
「うん。わくわくするね」
 ルーナがにっこり笑って風姫を見上げると、彼女はルーナの愛らしさにとろんと顔をとろけさせた。
「でも、桜の精霊さんはサンクトロイメで一人しかいないんだよね。それってなんだか寂しいね」
 どこかもの悲しい雰囲気を漂わせる精霊を見上げ、ルーナがそうつぶやく。すると彼は彼女に向けて、困ったように控えめな微笑みを浮かべてみせた。
『仕方ありません。この世界にとって吾は異質。そのため花は咲けど、実を結ぶことはないのです。ですが、この地の精霊方には大変良くしていただいているのですよ。それでも時折は……』
 突然口を噤んだ精霊は、それを誤魔化すように眉尻を下げて微笑む。ルーナは呑み込んだ言葉にこそ彼の真意があると思い、促すように繰り返した。
「それでも?」
 彼女が尋ねると、彼は困ったようにさらに眉尻を下げるが、ルーナがそれでも引き下がることはないと気づくと、諦めたように口を開いた。
『昔、かの国にいた頃、吾を愛でる祝宴が開かれておりました。吾を囲んで楽しむ人々。そんな光景がひどく懐かしく感じるのです』
 少しばかり嬉しそうに語る精霊を余所に、「愛でる」に過剰反応したルーナが自分を落ち着かせていた。
(愛でるって……桜よね、うん! 一瞬この精霊さんを愛でるとか、きゃー! あ、でも一応精霊さんは桜そのものなんだから……うーん)
『あの、姫君?』
「あっ、い、いや……ごめんっ」
 妄想中に話しかけられ、どきどきしながら意識を戻したルーナは、ふと良いことを思いついたとばかりに手を打ち鳴らした。
「そうだ、いいこと思いついた!」
『良いことかえ?』
 すぐさま反応した風姫と、首を傾げる桜の精霊へと目をやったルーナは、にこりと笑って提案する。
「あのね、邸に貴方の分身を植えたらどうかな?」
『それは……』
「挿し木って知ってるでしょ? 貴方が力を分け与えてくれればちゃんと根付くと思うんだ。そうすれば拠点の移動が可能になるんじゃないかな? それに正確には子供ではないけど、貴方の分身だから子供みたいなものでしょう?」
『おおっ、それは!』
「良い考えでしょう? 邸のが大きくなればお花見も出来るよ!」
 元気よくルーナが宣言すると、喜色を浮かべた桜の精はコクコクと何度もうなずいた。
『ありがとうございます。ぜひそうしていただきたい』
「うん、まかせて! じゃあ一枝だけちょうだいね?」
 ルーナがそう言って桜の幹に近づくと、差し出されるように一本の枝が彼女の前に差し出される。そっと枝にルーナの手が触れると、それは自分から折れ、ルーナの手の中へと落ちてきた。
『ルテ・ノアーム・ヴィル・ランディス・リール』
 植物などの生命活動を、自身の魔力を注ぐことによって一定時間止める魔法を唱えれば、枝は仮死状態となって鮮度を保たれるのだ。
「これでもう、寂しくないね」
 満面の笑みを浮かべてルーナが精霊を見上げると、彼は心から嬉しそうな笑みで彼女に言った。
『どうぞ吾の手を取ってください』
「え?」
 彼の言葉に首を傾げつつも、ルーナはそっと差し出された精霊の手に自分の手を重ねようとした。――その瞬間。

 吹き上げるように突風が巻き起こり、桜の花びらが彼女を囲むようにして舞い上がる。
(な、何これーーっ)
 思わず桜の精の手首をぎゅっと握りしめたルーナは、視界だけではなく、脳内にまで桜吹雪が舞い散るのを感じた。
 闇の中、くるくると無数の花びらが舞い上がり、ゆっくりとピンクの花びらが薄く透けてゆく。
(花びらが……あ、れ……)
 空気に溶けるように花びらが一枚、一枚と消えゆく中、桜吹雪が違う光景と移り変わってゆき、彼女の目の前には無数の桜――明るい日差しの中、満開の桜並木が映っていた。
「昼!?……それに桜並木!」
 ルーナは驚いたように目の前の光景を凝視した後、ふと、この桜並木に見覚えがあることに気がついた。
 左方に流れる川、その川沿いに植えられた何本もの桜の木。その満開の桜の花が川面に映り込んで揺れている。
(懐かしい。ああ、ここは……)
 そう気づくとルーナの瞳からポロポロと涙が零れ落ちていた。
 懐かしい場所――それはルーナが高崎千幸と呼ばれていた前世、住んでいた街の風景だった。
(ここはアパートの近く、でも少しだけ景色が違うみたい……)
 見慣れていたビルが見える、でも知っていたはずの建物がない。そんなことを思いながらキョロキョロと辺りを見渡したルーナは、前方から歩いてくる家族連れに目を向けた。
「ママー! 桜きれーだね」
「本当ね。すごく綺麗だわ」
 小さな女の子は目の前に立つルーナを気にすることなく、パタパタと駆けだし、時折目の前に降ってくる桜の花びらを掴まえようとジャンプする。
(たぶん、わたしは幽霊みたいなものかも)
 彼らが自分に気づくことのない様子なのをそう納得し、ルーナは微笑ましい光景に目を細める。そしてふと小さな娘を追いかける母親に目をやって、息を呑んだ。
「ゆりちゃん……」
 そこには小学生の時から、ずっと千幸の味方であり続けてくれた親友の姿。彼女は当然ながらルーナの姿が見えていないようで、立ち竦む彼女の横をにこやかに笑いながら通り過ぎてゆく。
 自分に気づくことのない親友を寂しく思いながらも、それ以上に幸せそうな彼女の姿にルーナは涙が止まらなかった。
「もう、ちゃんと前を向かないと危ないわよ、千幸」
(えっ!?)
「はぁい」
 すっかり大人になり綺麗になった親友は、そう言って駆け寄ってきた娘の手を握りしめる。
(ああ、わたしの名前を……)
「千幸はママが大好きだなぁ」
 父親らしき男性が、手を繋ぐ母子を優しい眼差しで見つめて言った。それを聞いた小さな千幸は、にっこりと笑って父親を見上げる。
「だってわたしとママはしんゆうなんだもんっ」
 誇らしげに胸を張る小さな千幸。そんな彼女に両親は目を細めている。
(ああ……ゆりちゃん。ありがとう……)
 ルーナはこれが夢だろうと、ただの妄想であろと関係ないと思った。ただ、流れる涙は間違いなく嬉し涙なのだ。
『さあ、そろそろ時間です』
 天から届く声のように、脳裏に直接語りかける声。
 ルーナがコクンとうなずいて応えると、途端に景色が歪み、薄れてゆく。
「ゆりちゃん、幸せに!」
 反射的に消えゆく光景へと叫んだルーナは、彼女が一瞬こちらへ顔を向けたのを見た。それと同時に景色は唐突に元に戻る。
『……ナ……ルーナ! 大丈夫か?』
 心配そうな風姫の声に我に返ると、ルーナはハッと辺りを見回した。そこには桜の木と桜の精霊。そして辺りは暗く、ぼんやりとした明かりに桜が照らされているだけだ。
「今のは……」
 呆然とつぶやくルーナに、桜の精霊は彼女の涙を拭って答える。
『ほんの短い時間ですが、あちらの世界を見ることが出来ます。吾の出自ゆえの特殊な能力でしょうか』
「じゃあ、あれは本当の……」
『はい』
(ゆりちゃん、幸せそうだった。わたしの名前を娘さんに付けてくれてたんだね。本当に嬉しかったよ)
 ルーナは心の中で遠く離れてしまった親友へと語りかけた。そしてもう二度と知ることの出来ない世界を繋げてくれた精霊へと、泣きながらも微笑んでみせる。
「ありがとう。本当に……」
 桜の幹に腕を回し、抱きつくルーナの頭を風姫は何度も何度も撫でてやった。


 ■ ■ ■


 ライデールにある公爵邸の庭に植えられた桜の木は、その地の地精たちの助けもあり、見事に根付いた。
 そして大きくなった桜の木は、いつしかその美しさに惹かれた者たちによって増やされ、春になるとたくさんの人々に愛でられるようになった。


 そしてクレセニアに『花見』というものが普及するのも、ほんの少し未来のこと――


- end -

WEB拍手として書いたものです。

2011/12/17 改訂