控えめなノックの音に、書斎で書類の整理をしていたアイヴァンは訝しげにドアを見た。
すぐさま控えていた家令のコンラッドがドアを開くと、顔を出したのはアイヴァンの長子であるジーンだった。
「父様、少しよろしいですか?」
息子の言葉にアイヴァンはうなずくと、コンラッドに目配せする。すると心得た家令は一礼した後すぐさま部屋を出ていった。
「どうした? ジーン」
息子を書斎のソファに座らせると、アイヴァンは自分もその向かい側に腰を下ろした。
「実は昨日のことなんですが……」
「ああ、マーサから聞いている。彼女のことが心配だったのか?」
アイヴァンは息子の深刻な様子にあたりを付けて尋ねた。
昨日ルーナが池に落ちたことを報告してきたマーサはかなり取り乱していた。子守として失格なので解雇してくれとまで言ってきて、アイヴァンの方が困ってしまったほどだ。
「マーサは辞めさせられてしまうのですか?」
心配そうに尋ねる息子に、アイヴァンは首を振って答えた。
「いいや、こんなことが二度と起こらないように注意はしたが、辞めさせるつもりはない。おまえたちも慕っているし、マーサほど有能な子守はいないからな」
「よかった」
「ルーナがあまりに聞き分けのいい赤ん坊だから失念していたが、赤ん坊は本来突飛なことをするものだ。今後はマーサも気をつけるだろうし、こんなことは二度と起こらない」
「はい。僕も今後はもっとしっかりルーナを見てることにします」
「そうだな。ところで話はそれだけか?」
マーサの進退を聞いても、硬い表情のままの息子を不思議に思い尋ねると、ジーンは躊躇した後話し始めた。
「ルーナのことなんです」
「ルーナの?」
訝しげな父に、ジーンはコクンとうなずく。
「父様。ルーナが池に落ちた時、まるで水があの子を返すように水面が浮き上がって、池の岸まで運んだんです。あれって精霊の仕業じゃないかなって……」
「…………」
「それに、岸に上がったルーナの衣服は全然濡れてなかったんです」
ジーンは黙ったままの父を不安げに見上げる。
やがてアイヴァンはゆっくりと口を開いた。
「人に無関心なはずの精霊が加護を与えるか……。まったくルーナはつくづく規格外らしい。尋常ならぬ魔力に、精霊の加護。まだ何かあったとしても最早私は驚かぬよ」
「父様、ルーナは大丈夫なのでしょうか?」
魔法王国と呼ばれるクレセニア王国では、魔力があること自体は誇れこそすれ、困ることではない。だがそれが、明らかに尋常ではない強大なものだとすると話は違ってくる。
その力を利用しようとする者や、恐れる者。様々な思惑が絡んでくることは容易に想像できた。
それによって狙われる可能性も――
リヒトルーチェ公爵家の姫という立場は、ある程度の盾にはなる。しかしそれでも絶対かつ万全なものではないのだ。
また精霊の加護を受ける者は、精霊使いの素質があると言われている。
精霊を使役できる者があまりにも希少なため、その存在自体が奇跡と呼ばれる精霊使い。
そのため彼らは崇められる一方、力の大きさに恐れられてもきた。実情を知るアイヴァンにとっては、ルーナがその希少な才に恵まれていることは、手放しで喜べるものではなかった。
「ルーナも今はただの赤ん坊だ。だが、いずれその存在は隠せなくなる。それまでに我々で何ができるのか考えよう」
「はい。僕らの大事な家族だから守らなきゃ」
「ああそうだな」
力強くうなずく息子に、アイヴァンは頼もしげに微笑んだ。