「ルーナ」
そう呼ばれることにも慣れてきた。そんなことを思いながらルーナレシア――ルーナは呼ばれた方向へと顔を向ける。首のみを動かすだけの動作だが、生後三ヶ月のルーナにしてみればそれもやっと最近できるようになったばかりだ。
眠くてたまらない日常を過ごしながらも、少しずつ周りの様子がわかってきたルーナこと、前世、高崎千幸。
最初は起き上がることはおろか首さえ動かせない状況に、寝起きでぼんやりしたままの彼女は、肢体不自由にでもなったのかと焦り、大泣きしてしまったものだ。
そしてそんな時は、すぐに飛んできた母ミリエルや、子守のマーサ、そして時には父アイヴァンに抱き上げられて慰められるのが常だった。
ルーナ、ルーナ様と呼ばれて抱きしめられると、彼女はそこでやっと自分が無力な赤ん坊だと気づくのだった。そしてすぐにまたまどろみに引き寄せられてゆく。
「まぁ起きてたのね」
そう微笑み、ミリエルは赤ん坊用の寝台からルーナを抱きあげた。
「ミルクの時間だものね」
ミリエルの言葉が耳に入った途端、ルーナは内心青ざめる。
いくら現在母乳が必要な赤ん坊とはいえ、中身は元十八歳なのだ。授乳は恥ずかしい。というか拷問だ。
(あああ、無理!)
パタパタと手足を動かして抵抗を示すのだが、ミリエルは「あらあら、待ちきれないのね」とその綺麗な胸元を早速あらわにしようとする。
(うわぁ、女同士だけど……女同士だけどぉ)
恥ずかしさに耐え切れなくなったルーナは、意識を逸らすように自分へと暗示をかける。
(寝るっ、眠ってしまえっ!)
そうやって目を閉じることをイメージすれば、彼女の意識はすぅっと遠ざかって、まどろみの中に引き込まれていくのがわかる。
そんな千幸の意識とは別に、実際のルーナはぱちりと目を開けて授乳されているのだ。
この方法は、生後まもなく恥ずかしさに耐えかねた千幸が編み出した対処法だった。
まだ自我のない赤ん坊ゆえに、根底にある千幸の意識がなくても、身体はその本能で行動するらしい。これは次に目が覚めた時に、ちゃんと空腹が満たされていることで証明済みだ。
千幸の記憶を残したまま転生したものの、自我のない赤ん坊にきちんと考えることができる千幸の意識があるのは不都合なことも多い。ミチオが言っていた意識を曖昧にしておくというのが、そのための救済策なのだろう。
こうして、曖昧に浮き上がってくる千幸の意識の中で、彼女はルーナという自分と、その周囲に慣れ、日に日に『リセット』した人生に違和感を感じなくなっていった。
生後半年くらいになると、やっと授乳が終わり離乳食に切り替わった。もちろんルーナは嬉々として離乳してみせた。ミリエルの方が逆に寂しそうにしたほど、あっさりと。
ルーナは知る由もなかったが、この世界の高貴な女性は一般的に乳母を雇い、自ら子供を育てることをしない。そういった意味ではミリエルは珍しいほどに子供たちを慈しんでいる女性だった。
「ジーンたちを離乳食に切り替えさせるのは大変だったのに……」
ポツリとつぶやかれたミリエルの言葉に、ルーナは思わずギクリとする。
そして前世での施設時代に、乳幼児の世話をした経験を思い出し、赤ん坊としてどこかおかしくなかったかと自問する――実はこの育児経験が大いに役立ち、ルーナはこのエセ赤ん坊ライフでボロを出さずに済んでいるのだった。
(さすがに中身が十八歳とかばれるのはね……)
奇異な目でa見られることも嫌だったが、それで両親や兄姉たちを心配させる事態になるのはもっと嫌だとルーナは思う。
(中世の魔女狩りみたいなのがこの世界にないとは限らないし……考えすぎかも知れないけど、どちらにせよ悪目立ちしない方が賢明だよね。家族のためにも)
すでにこの短い期間で、ルーナにとって彼らはかけがえのない存在になっていた。
家族という存在を知らなかった前世があることで、余計に彼らが大切なのだと実感する。そのため彼らに迷惑をかけるくらいならば、エセ赤ん坊ライフを押し通すことなど苦ではなかった。
(でも離乳だけはしよう。あれはもう精神的ダメージが大きすぎる……)
一人うんうんとうなずきながら、エセ赤ん坊のルーナは誓うのだった。
それからの日々も、千幸としての記憶や知識、大人たちが交わす会話を聞くことなどによって、彼女は順調に赤ん坊ライフを過ごしてゆく。
(結局、名前が『千幸』から『ルーナ』になっただけなんだよね)
そう納得した彼女は、ルーナとしての自分をしっかりと受け入れていったのだった。