リセット 〜 Trial Version 〜



第1章 不幸少女の最大の不幸 03


 自宅である古びたアパートに帰り着いた千幸は、外にある鉄骨階段をとぼとぼと上り、二階の端のドアを開けた。
 玄関を入ってすぐ横にある小さなキッチンと、その奥の六畳間。本棚とその上に置かれたテレビ、あとはコタツがあるだけの殺風景な部屋に入ると、千幸は電灯も暖房のスイッチも入れることなく座り込んだ。
 思い出したくないにも拘わらず、何度も先ほどのやり取りが脳裏に再現される。千幸は零れそうになる涙を堪え、キュッと唇を噛んだ。
 寒々しく薄暗い部屋でどのくらいの時間そうしていたのだろうか。
 千幸は突然聞こえてきたメロディに、驚いてビクリと身体を揺らした。すぐにそれが携帯電話からのものだと気づき、スカートのポケットに手を伸ばす。
 携帯電話の画面には、あらかじめセットしておいたバイトの出勤時間を知らせるアラーム表示が出ていた。画面に表示された時刻を確認すると、帰宅してから随分な時間が過ぎているのに気がつく。
「用意、しなきゃ……」
 正直バイトに行くのも気が進まないが、その気持ちに従えるほど千幸の環境は甘くない。
 急いで制服を着替えると、ダウンコートを羽織り、帆布のトートバッグを肩にかける。
 普段ならば出勤前には洗濯などの家事をこなすのだが、今日はもうその時間がないため彼女は慌しく部屋を出ていく羽目になった。

 千幸のバイト先は、自宅から十分ほどの場所にある洋菓子店だ。
 高校に入学して最初に始めたバイトは、個人経営のカジュアルフレンチのレストランだった。この店で料理の手ほどきを受けた千幸は、作る楽しさに触れ、漠然とだがその方面の仕事に就きたいと考えるようになった。
 そんな彼女を応援してくれていたオーナーは、自身の高齢を理由に閉店を決めた時、彼女の夢が叶うようにと知り合いの洋菓子店を紹介してくれた。それが現在のバイト先だ。
 料理と同じく、作る楽しさは菓子作りにもいえる。
 厨房スタッフとはいえ雑用からはじまった千幸だが、その熱心さを買われ、最近ではバイトながらパティシエのアシスタントとして扱われるようにもなっていた。
 卒業後はこの店に就職し、働きながら技術を学ぶことも決まっており、千幸はバイトの時間を楽しみにしているくらいだった。――今日までは。
(晴樹、バイト辞めるって言ってたけど、さすがに今日いきなりってことはないよね……)
 店の前に来てそのことに思い当たった千幸は、思わず足を止めた。
 放課後までは久しぶりに春樹と同じシフトだと喜んでいたのだが、今はさすがに彼と顔を合わせるのが気まずい。
 喫茶スペース担当の晴樹と、厨房担当の千幸では勤務中に顔を合わせることは少ない。だが、それでもまったく接触がないわけではないのだ。
(バイト先の人はわたしたちが付き合ってたのを知らないけどさ……)
 憂鬱な気分ではあったが、お小遣い稼ぎで気楽に働く他の高校生とは違い、千幸に『欠勤』という選択肢はない。
 彼女はパチンと自分の頬を叩くと意識的に明るい表情を作り、従業員入口へと向かった。