その日の午後、マーサはのんびりと公爵邸の廊下を歩いていた。今日は隔週光曜日の休日ということで、彼女は先ほど街から帰ってきたばかりだった。
マーサ・ポーターはリヒトルーチェ公爵家の
その後、公爵家で働くコックのセオリオ・ポーターと恋に落ちた彼女は、彼と結婚するにあたり一度公爵家を辞することになったのだ。しかし公爵夫人に是非にと請われ、後に公爵家の子供たちの子守役として再雇用され今に至る。
(公爵家のご兄妹は皆様、聡明で早熟、早々に子守など必要としなくなられたけど、ルーナ様に至っては七歳にして既に子守というより話し相手か家庭教師(ガヴァネス)だわ。それがたまに寂しいけど、頼もしくもあるのよねぇ……)
自分の世話する少女を思い浮かべ、マーサはくすりと笑う。隔週光曜日の休日もルーナでなければありえないことだ。普通であれば常にルーナと行動を共にするのがマーサの仕事だ。だが彼女に関してはそうも言ってられないのだった。
天才的な魔法の才能を開花させ、すでに高度な魔法を習うルーナの勉強時間や、時折訪れる客との会談にマーサの同席が許されないためだ。
前者は高度な魔法ゆえに結界を張るため、第三者を排除するからであり、後者はマーサに直接知らされることはないが、彼女を訪ねてくるのが実はやんごとない人物だったりするためだ。
そのため一年ほど前からは隔週の光曜日と毎週の闇曜日に、マーサは暇をもらうようになっていた。今日も朝から商業区へと出かけて休日を満喫していたマーサだが、同じく公爵邸で働く夫に用事が出来たため休日にも関わらず公爵邸に顔を出したのだ。
「セオリオきっと喜ぶわね」
公爵邸の広い廊下を歩きながら、マーサは手に持った包みを大事に抱えて微笑んだ。包みの中身は商業区の仕立て屋で働く長男が仕立てた夫の洋服が入っている。仕事以外では着たきり雀である父へ、息子からの贈り物なのだ。
久しぶりに息子に会えたこと。またその気持ちが嬉しくて、マーサは軽い足取りに加えて鼻歌まで歌いながら目的地へと歩いていく。
そんな彼女に、後方からクスクスと笑いを含んだ声が届いた。
「マーサ! 嬉しそうね? どうしたの?」
驚いて彼女が振り向くと、そこにはリヒトルーチェ家の長女であるアマリーがにこにこと笑って立っていた。彼女も例に漏れずマーサが子守として最近まで付き添っていた少女だ。
「アマリー様? どうしたのといわれましても……」
アマリーの問いに困惑気味にマーサが応えると、彼女はからかうように指摘した。
「マーサったら、ルンルンしながら鼻歌を歌ってたわよ?」
「えっ? まぁ……」
驚きの表情の後、恥ずかしそうに口元に手をやったマーサに、彼女は楽しそうに話しかけた。
「今日はお休みでしょう?」
「はい。それで息子に会いにいったのです」
「ジャンに? あっ! その包みってもしかして?」
顔を輝かせて指摘するアマリーに、マーサは満面の笑みでうなずいてみせた。
「そうなんです。ジャンがセオリオにって」
「そうなんだ。よかったわね! そういえば父様もジャンの仕立ての腕は中々だって褒めてたわ。あと数年もすれば店を出せるくらいだって言ってたのよ」
「まぁ、公爵様が? そんな風になれば素敵なんですが……」
「きっとなれるわよ。父様お墨付きだもの」
「ありがとうございます」
「じゃあ、セオリオに会いに行くのね?」
「ええ。今は丁度休憩の時間ですし」
そう言ってマーサは廊下にある手近な時計を指差した。時計の針は二時をさしており、昼食の片付けも終わって料理長である彼女の夫は休んでいる時間だった。
「あ……でも……」
マーサの答えに不意に戸惑いの声をあげたアマリーを見て、マーサは不思議そうに彼女に問いかけた。
「どうかなさいました?」
「うん……今日ってたしか……」
「はい?」
「ねぇ、今日のことセオリオかルーナに聞いてる?」
「今日のことですか? 特に伺っておりませんが……セオリオも関係あるのですか?」
マーサが困惑した様子で応えると、アマリーは悪戯っぽく笑って彼女に言った。
「いいわ、一緒に来てマーサ」
「は、はい?」
柔らかな手が彼女のふくよかな手を握ってひっぱる。マーサは弾んだ足取りで歩きだしたアマリーの後を困惑しながら追いかけた。
リヒトルーチェ公爵邸は貴族の邸宅が立ち並ぶ北区の北西にある。王宮から程近いこの屋敷は、元々は王族所有の離宮だったものだ。
当時の国王の同母弟であったリヒトルーチェ初代当主は、王族から臣に下るにあたって公爵位と、宰相の地位に就いた彼のために王都の北西にあった離宮を贈られたのだった。
長い歴史の中で改築や増築で幾度か手を加えられた屋敷は、各々に各時代の建築様式を残しながらも互いにそれを損ねることのない美を称えていた。それは初代より翳ることのない公爵家の権勢の証でもある。
リヒトルーチェ公爵家は国内に多数の領地を持つものの、基本的には王都から出ることなくこの屋敷で暮らしている。それは田舎に領地と
そんな公爵邸の東棟のはずれに最近作られた建物がある。
レンガ造りの建物は、赤茶色の壁と白く塗られた窓によって、とても可愛らしい趣の建物だった。
アマリーに手を引かれるままにやってきたマーサは、アマリーが東棟の廊下の端にある通用口のドアを開けるのを見て声をあげた。
「アマリー様? そちらはルーナ様の……」
「そう。ルーナの
最近新しく作られた建物、ルーナの研究室と呼ばれるそれはルーナ専用の厨房だった。
本来ならば厨房は、料理長の城である。助手であるコックやキッチンメイドを除いては、従僕や他のメイドでさえ立ち入ることは嫌がられ、料理は専用の小窓から受けとるくらいなのだ。そしてそれはリヒトルーチェ公爵家の厨房でも同じことだった。
しかし公爵邸では、一年ほど前よりその不可侵の厨房を脅かす者が存在した。――公爵家の末娘ルーナである。
さすがに公爵家の令嬢が相手では、いかな料理長でも彼女に退出命令を出す権限はない。
もっとも彼女に満面の笑みでお願いされれば、断れる者などリヒトルーチェ家には居らず、それは勿論厨房で働く者も同じだった。
とはいえ彼女が厨房にいる間は、厨房の全員が仕事にならず、彼女の一挙手一投足を心配げに見守ることになる。この事態に公爵夫妻は彼女を咎めるかと思いきや、なんと彼女専用の厨房を作ってしまったのだ。
こうして出来た専用厨房だったのだが、最近では彼女が見たこともない見た目も味も素晴らしい料理や菓子を生み出すことから、冗談めかして彼女の兄姉たちが「ルーナの
「アマリー様?」
訳が分からないと声を掛けるマーサに応えることなく、アマリーは変わらず彼女の手を引きながらレンガ壁の中心にある、白く塗られた木製のドアを開けた。
ドアを開けた瞬間にふわりと漂う甘い香りと、中からの熱気にアマリーとマーサの足が一瞬止まる。そのままの状態で中を覗き込めば、広い厨房の中には数人の男たちに囲まれるようにして一人の幼い少女の姿があった。
「ルーナ様……?」
(これはいったい……)
マーサが驚いて彼女を凝視していると、その視線に気づいたのかルーナがこちらを向いた。
「あっ、姉様! マーサもっ!」
花が綻ぶような笑顔を浮かべると、ルーナはパタパタと大人たちの間をすり抜けて二人のところまで駆け寄ってくる。今日の彼女の装いは浅葱色のワンピースに白のフリル満載のエプロンドレスというもので、同じくフリルで作られたヘッドドレスが愛らしい。
「ルーナ、どぉ?」
「ふふっ。後で姉様にも持っていくからね?」
「ほんと!? 嬉しいわっ」
仲良く言い合う姉妹の会話に無意識に顔を綻ばせた後、マーサは厨房にいた人間たちへと視線を向けた。そしてその中に夫セオリオの姿を見とめ驚いた声を上げた。
「セオリオ!?」
マーサの叫びに、セオリオは苦笑しながら近づいてきた。豊かな茶色の髪と水色の瞳のセオリオは、渋みのある容貌に良く似合う髭を鼻の下に蓄えている。身長はさほど高くないが、スラリとした体型は若い頃から変わらず、白いコックの制服がよく似合う。
「なんでお前がここにいるんだ? 今日は確か休みだったはずじゃ……」
「それはこっちの台詞よ。なんでセオリオがここに?」
「あー……それはだな……」
「おおっマーサではないか! 久しぶりじゃな!」
セオリオが説明しようと口を開いたところで、奥の方からそれを邪魔するように声が届く。マーサがそちらを見ると白い顎鬚を生やした初老の男性が笑顔を浮かべていた。
「ナ、ナシル様……」
マーサは初老の男性を指差すと、驚いた表情で声を絞り出した。その様子に横で見ていたルーナたちが好奇心を隠しきれずに問いかけた。
「マーサ? ナシルさんと知り合いなの?」
「え、あ、はい……」
マーサはルーナの問いかけに曖昧に答えると、まじまじと彼を見た。
ナシル・ミュラーはマーサが前公爵夫人の話し相手として雇われていた頃、リヒトルーチェ公爵家の料理長として腕を振るっていた人物だ。その後王宮の総料理長に抜擢され公爵家を辞した後は、彼の弟子であるセオリオがリヒトルーチェ家の料理長を務めている。
二十年ぶりにもなる再会に驚くと共に、王宮の料理長がこの場所にいることを疑問に思い、マーサは夫とさらには他の人物へと目をやった。ナシルや夫、そして厨房にいる数人の男たちは全員コックの制服を着ており、皆一様にノートや手帳らしきものを手にしている。
「あなた? これは一体……?」
ポツリと呟いたマーサに、応えたのはクスクスと笑い声を漏らすアマリーだった。
「今日は『ルーナのお料理教室』の日なのよ?」
「はい?」
目を丸くするマーサに、少しばかり顔を赤くしたルーナがはにかみながらうなずいた。
「あのね、最初はセオリオと一緒に色々作ってただけなんだけど、少し前からナシルさんもぜひ一緒にって言われて……」
「そうなんだ。いきなりナシル先生が尋ねてきたと思ったら、ぜひルーナ様と厨房にたつ時は連絡してくれと言われてびっくりしたもんだ」
「いやいや、陛下より頂戴したチョコレートなるものの素晴らしさ! 教えを請わんでどうする! しかも弟子が一緒に作っていると聞いて、うらやまし……ゴホン……これはぜひ参加せねばとな」
「私たちもセオリオ殿やナシル殿よりその話を聞いてぜひ参加したいと思いましてね」
「ええ。この年になってこんなにワクワクするとは……」
「は、はぁ……」
大の大人たちの興奮した様子にマーサは引き攣った顔で頷いた。
専用厨房を用意してもらったルーナだが、やはり一人で調理をするというのは両親及び使用人も怪我などが心配だった。そこで数人のキッチンメイドと料理長のセオリオが、彼女が調理をする時は付き合うことになったのだ。
もちろん前世の記憶があるルーナのこと、現在の幼い身体ゆえの不備はあるもの、人の手を煩わせるほどではない。むしろ調理器具の扱いなどを除けばサクサクと調理を進めていくくらいだ。その様子にいつの間にかルーナの安全監督責任者であったセオリオはお役御免な状態になったのだが、いつしか彼女が創造する見たこともない料理や菓子に魅せられ、今度は逆にルーナに教えを請うために一緒に調理することを望んだのだ。
そして先日の師匠であるナシルからの連絡である。
王宮へ出向いたルーナが国王に創作菓子を手渡したことから、それに感動した国王が料理長であるナシルにそれを自慢したのだ。見た目も味も素晴らしいその菓子に感銘を受けたナシルは、それを作ったのがさる大貴族の令嬢であることに驚いたが、それが前の雇い主リヒトルーチェ公爵家だと知ると、すぐさまかつての弟子の元へと出向いたのだった。
「なんとかして、わしもルーナ嬢のお菓子作りに参加させろ!」
「はい?」
「お前だけあんな素晴らしいものの作り方を学ぶとはずるいぞ! なぜ師であるわしを呼ばん」
「す、すみません……」
もはや言いがかりだが、ある意味愛すべき料理バカなこの師匠の気持ちがセオリオにはよくわかる。苦笑しながらナシルをルーナに紹介したのだった。
そしてそんな人間はナシルひとりではないわけで……。
どこから聞きつけたのか、セオリオやナシルの元には「ぜひ自分も参加させて欲しい」という料理バカたちの要請が舞い込んでくるようになり、いつの間にか隔週光曜日に料理教室が開かれるようになったのだ。
「セオリオったら、マーサに内緒にしてたの?」
肩を竦めてアマリーはセオリオを咎めるように見た。その視線に彼は罰が悪そうに頬を指で掻いている。それを見ながらマーサは面白そうに口を出した。
「いまさら人様に教えを請うているのが恥ずかしかったんじゃないかしら?」
「うっ……」
「ふんっ。そんなつまらん矜持など捨てろ。人生死ぬまで勉強じゃ!」
王宮の総料理長という、料理人としては最高の場所まで登りつめたナシルの向上心溢れる言葉に、セオリオは反論も出来ず苦く笑った。
「マーサ? でもね私が教えてるとかじゃなくて、皆で一緒に新しい料理とか作ってるんだよ?」
「ほれみたかセオリオ! ルーナ嬢のなんと謙虚なことかっ」
「は、はぁ……」
夫の困ったような顔にマーサは思わず笑い声を上げる。それに釣られるようにしてその場にいた全員が一緒に笑った。
「それにしても、結構な人数の方がいらっしゃるのですね」
「これでも今日は少ない方だぞ」
厨房にいるコックの数を見ながらマーサが言うと、セオリオは笑いながら答えた。それに続くようにその中で一番若い青年コックが続ける。
「いつもなら、職人の人もいたりしますからね」
「職人?」
首を傾げるマーサに、ナシルが髭を手で撫でつけながら答えた。
「魔道具職人じゃ。皆でこうやっている内にルーナ嬢がもっと便利な調理道具の開発を思いついてな。ここにいる者たちの意見を取り入れた調理器具の製作をしようということになったのじゃ」
「まぁ……じゃあいずれ私たちにも便利なものが出来るかもしれませんのね?」
「そういうことだ」
「レングランドの魔道具研究では、意外に日用品的なものの製作って思いつかないものね」
アマリーがしみじみと言うと、マーサも頷きながら同意した。
「そうですね。普通の殿方では料理をなさる方はいらっしゃいませんし」
「そうよね。というわけで、ここって本当に最近じゃ研究所っていうのがあながち間違いじゃないのよ?」
「びっくりしましたわ」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
重々しく頷くナシルに苦笑しながら、マーサは驚嘆の思いでそっと小さな少女を見やる。
(本当にこの方には驚かされるわ。あの気難しくて子供は敵だと宣言するナシル様が愛孫を見るかのようにルーナ様を見てるし)
「マーサ……」
考え込んでいたマーサは、不意におずおずと呼ばれてルーナへと視線を向ける。するとルーナはマーサのスカートを小さな手で掴んで彼女の顔を不安げに見上げていた。
「内緒にしてたから怒ってる?」
可愛らしい心配に、マーサは思わずぷっと吹き出して首を振った。
「いいえ。ただびっくりしただけですわ」
「そっか……ならよかった。今日はね、チーズケーキを作ったんだよ」
「まぁ、それはどんなものですか?」
「ふふっ。今日はバレちゃったから、きっとセオリオがお土産に持ってってくれるよ?」
悪戯っぽく笑うルーナにマーサは笑いながらも、横目でセオリオを睨んで恨めしそうに責めた。
「セオリオったら、今までは私に隠れて美味しいものを自分だけで楽しんでいたのね」
「い、いや、楽しんでいたというわけでは……」
しどろもどろで言い訳するセオリオに、周りの人間たちは耐え切れずに笑い出す。それに「まいったな」と頭を掻きながらも彼も苦笑いを浮かべた。
「マーサ許してあげないと、お土産がなくなっちゃうかもしれないわよ?」
アマリーがセオリオに助け舟を出すと、マーサは芝居掛かった様子で重々しく「許してあげましょう」と頷いてみせた。それを見てアマリーは笑いながら口を挟んだ。
「じゃあ、いつまでも邪魔してたら出来上がらないから、私たちは行きましょう?」
「そうですね。じゃあセオリオ、帰りを楽しみにしてるわよ?」
「あ、ああ……」
「あっ、そうだわ。ジャンから貴方へのお土産もあるのよ。それも楽しみにしてて」
マーサの言葉にセオリオが笑顔で大きく頷くと、彼女は満足そうにアマリーと共にその場から引き上げた。
ドアを閉めると共に振り返ったマーサは、小さなルーナを囲むようにして大人たちが真剣な表情で話しを聞いている光景に目を細める。
アマリーと廊下を共に歩きながら、マーサは先ほどの光景を思い出してクスリと笑う。
(セオリオのあの真剣な顔! ちょっと惚れ直したわ)
マーサは若き日に恋した彼を思い出しながら、公爵邸から家路へと向かったのだった。
- end -
side story より 2011/12/14改訂